ヴィパッサナー瞑想10日合宿の記録 7

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7日目〜10日目までの記録です。前回

7日目

この日は夜の1時くらいに目が覚めてしまいました。相変わらず誰かのアラームが3時半に鳴ります。

朝からぐずついた天気で、雨が降るたびにカエルが鳴いていました。午後になると雨が強まり、そこここにカエルがいました。1m四方に2、3匹のカエルがいるという状況で、踏まないように歩くのが大変でした。

パンガ

だいぶ修行が進んだのか、この頃になると左半身の感覚も感じるようになり、グループ瞑想でもズルせずに1時間動かずにいられるようになりました。

午後、部屋で瞑想をしていると身体中の感覚が溶け出す「パンガ」と呼ばれる状態になりました。「パンガ」は想田和弘さんの本で知ってましたし、事前のアーナーパーナー瞑想でも経験していたので驚きはありませんでしたが、やはり修行が進んだようで嬉しかったです。

カエル事件3

夜の講話と短いグループ瞑想の間の休憩時間は5分ほどなので、トイレには行かず部屋に戻って水だけ飲もうと思いました。この時、懐中電灯を忘れたことに気づきました。いつもはカエルを踏まないように夜は懐中電灯をつけて歩いていました。しかしホールまではわずかな距離だし、雨は止んでカエルの声はあまりしないので大丈夫だろうと思い、懐中電灯なしでホールに向かいました。

ホールまであと3mほどの地点で、長靴の裏に「プチッ」という感触がありました。何を踏んだかは大きさと感触から見なくてもわかりました。足裏を覗いてみることはできませんでした。

1日の終わりの短いグループ瞑想は、明日に向けて新しい指示をされる重要な時間です。しかし自分は「殺生した」というショックで全ての指示を聞き逃してしまいました。

8日目

瞑想の指示はどんどん高度になってきました。

朝の瞑想では、ほとんど身体に感覚を感じませんでした。まだ昨日のカエル事件をひきづっているようでした。自分の修行はカエル1匹でダメになるものだったのかとつらくなりました。カエルへの申し訳なさよりも自分のことを考えていました。

この日の瞑想は散々でした。感覚はどんどん見えなくなっていきました。

講話では、「前進の唯一のものさしは心の平静さである」という話がありました。ここで自分に足りないのは「平静さ」だと思いました。パンガの状態になって以来、それを知らず知らずのうちに渇望していたと気づいたのです。

9日目

昨日の気づきをもとに、「平静さ」に気をつけて感覚を見るようにしました。平静でいるのは難しく、感覚がないと感覚を欲してしまったし、自分の胴体の正面、内蔵の部分を見るときには嫌悪がありました。しかし相変わらず感覚はあまり感じないままでした。

1日の終わりに、「このまま自分は感覚が見えないまま終わるのだろうか」と寂しさを感じました。

10日目

沈黙の解除

午前中のグループ瞑想のあと、聖なる沈黙が解かれ、生徒同士でおしゃべりしてもOKになりました。いろいろな人としゃべってみたかったのですが、なかなかきっかけがつかめず敷地内をうろうろするだけの「村人A」状態でした。

このままではいけないと思い、すれ違う人に日本語の便利ワードたる「おつかれさまでした〜」と声をかけることで話すきっかけにできました。新しい生徒さんの感想では、「ものすごく辛かった!」という人が多く、また雷に打たれるような激しい内的体験をしたという人も多くいて、どちらでもなかった自分に少し寂しさを覚えました。

食堂に行くと、ヴィパッサナー協会や瞑想に関するいろいろな本が置かれていました。昼食には10日目を記念してか、豆乳ケーキが出ました。感覚がないのは残念でしたが、10日間やり切ったと感じられて嬉しかったです。

ダーナ

10日目以降、ダーナ(寄付)ができるようになります。この合宿の費用は全て寄付によって賄われていて、お金がない人は寄付をしなくても構いません。つまり無料です。こうした自分を見つめる技術を必要とする人ほど経済的に余裕がないことがあるので、これは本当にありがたい制度だと思いました。

自分もできる範囲で精一杯の寄付をしましたが、知人に話したら「それだけ?」と呆れられられました。余裕ができたときにまた寄付しようと思います。

AT

正午、アシスタント指導者に最後の質問をしました。質問はあまりにも身体に凝り固まった感覚が多いことについてだったと思います。ATからは「何度も何度も凝り固まった感覚を観察してください。それが修行ですから」というアドバイスを受けました。

このアドバイスによって、自分の瞑想が自己流になっていたことに気づきました。パンガの心地よい感覚を渇望したり、粗雑な感覚が消えるのを願って観察し続けたり。9日目に「平静さ」に気づきましたが、瞑想には「気づき」も必要であるということは講話で何度も話されていました。「平静さ」と「気づき」は鳥の両翼のように、どちらが欠けてもいけないのだと。

教えられたことを信用せず、すぐに自己流にしてしまうのは、長年の教育に対する反発心からなのかもしれません。とにかくこの気づきから初心に戻って瞑想することにしました。

ATからは10日間のねぎらいと、10日の瞑想は始まりであり、これからが長い修行なので共に頑張りましょうという言葉をもらいました。ATは自分の(ときにくだらない)質問に何度も答えてくれました。この10日間、アシスタント指導者にも賃金は発生しません。自分たち生徒が瞑想修行をするためにたくさんの人々によって支えられていることを感じました。

感覚

グループ瞑想で、改めて「平静さ」と「気づき」を意識して感覚を観察すると、感覚がよく見えました。「平静さ」と「気づき」はどちらかに偏りやすく、偏りをなくすのは大分修行が必要だと感じました。

感覚はよく見えましたが、聖なる沈黙の解除によって少し前にしゃべった内容などが頭を回りました。聖なる沈黙にはそれを防ぐ意味があったのだと気づきました。

この時は集中していて、1時間ズルしなくても余裕で座ることができました。瞑想が終わった後にいつもの不安感がなくなっていることに気づきました。ちゃんと感覚を平静にみることができるとどうなるのかを最後に体感することができました。

メッター・バーヴァナー

ティータイムとミーティングの後、メッター瞑想(慈悲の瞑想)の指導がありました。これは自分と生きとし生けるものが幸せであることを願う瞑想です。ことあるごとに「人類は滅んだほうがいい」とぼやく自分には必要な瞑想でした。

生きとし生けるものが幸せでありますように やすらかでありますように

記録8へつづく