4日目〜5日目の記録です。前回
4日目
この日の指示は感覚を観察する範囲をさらに狭め、上唇を底辺とし鼻の下を上辺とする台形の部分(つまりヒゲの生える部分)にする、というものでした。
この日の朝食には、デーツ(ナツメヤシの実)が出ました。デーツは初めて食べたのですが、とてもおいしかったです。朝食を終えて食堂を出ると「今日はヴィパッサナーの日です」という張り紙がありました。今日でアーナーパーナ瞑想を終え、いよいよ本題のヴィパッサナー瞑想の指導に入るのでした。
朝食後、いつものように敷地内を散歩しました。早朝は雨が降っていたのに、今は止んで快晴の空が広がっていました。
ヴィパッサナー瞑想
午後になると、ヴィパッサナー瞑想の指導がありました。頭頂から足先まで、順番に体の感覚を観察するというもので、どんな感覚にも反応せずにただ観察するということでした。体の表面には温かさや冷たさ、脈打つ感じなどがありました。
人には意識があり、認識があり、感覚があり、そして感覚に対する反応があります。感覚は熱い感じ、冷たい感じ、圧力がある感じなど、ただニュートラルな感覚として体の表面に現れますが、それに対し心地よい感覚には渇望を、不快な感覚には嫌悪の反応をしてしまいます。ここに苦が生まれます。ヴィパッサナー瞑想は感覚に対して反応せず、平静に観察することによって苦しみが生まれるのを止める訓練なのだそうです。
「こういう感覚がおきたら、こういう反応をする」といったリストの束みたいなものを人は持っています。たとえば「腹にこういう緊張がおきれば、怒りを表現する」とか。怒りを感じるから腹に緊張が起こるのではなく、腹に起きた緊張を怒りとして解釈します。それは遺伝的に受け継いだ反応かもしれないし、経験を通じて獲得した反応かもしれません。問題なのは、その反応が自分が意識しない間に作られているということです。ヴィパッサナー瞑想では感覚の観察を通じて、その反応のプロセスを一度意識の下で明確にし、自動運転のような反応の解除を試みる訓練です。自分はコース後にこの瞑想に対してそういう理解をしました。
強い決意
夜のグループ瞑想では、「強い決意を持って1時間手や足を組み替えない」ように指示がありました。これから先のグループ瞑想では、常に動かないことが求められます。今まではあぐらの状態から足が痛くなった時は体育座りをして、しばらくしたらまた戻すということをやっていましたが、それもできなくなります。かなり辛さはありましたが、この時はなんとか手足を組み替えることなく1時間耐えることができました。
5日目
午前中の瞑想では、アシスタント指導者から「1時間大きく動かないで座ることができますか」という質問がありました。昨日の夜とこの日の朝のグループ瞑想ではなんとか動かないでいられたので「できます」答えました。本当にギリギリだったので、「ギリギリですが」という言葉を入れたかったのですが、簡潔に答えるように言われていたので「できます」とだけ答えました。なんだかすごくできる人のようになってしまいました。
昼食にはトマトソースのパスタが出ました。おそらく野菜だけで作っているはずなのにとてもおいしかったです。奉仕者をやればレシピを知れるかもと思今したが、利己心で奉仕活動をしてはいけないので思いとどまりました。
クモ事件
宿舎に戻ると、玄関の壁に大きめのクモがいました。人はカエルとヘビとクモのどれかが苦手といわれますが、自分はクモが一番苦手でした。カエルはなんとか外に追い出すことができましたが、クモは対処できるかわかりませんでした。一度トイレに行って対策を考えました。このまま無視しようかとも思ったのですが、自分の部屋は玄関に一番近いことを思い出しました。殺人鬼が部屋に来る可能性は低そうでしたが、玄関のクモが自分の部屋に入ってくる可能性は高いように思えました。
そういうわけで、例の「アレ」を使って宿舎の外にご退場いただくしかなさそうでした。勇気を出して宿舎の近くまで行くと、1人の古い生徒さんが玄関から「何か」をポイっと放り投げるのが見えました。「もしかして…」と思いつつ玄関に入ると、件のクモがいなくなってました。聖なる沈黙のためにお礼は言えなかったのですが、素手でクモを追い出してくれた名前も知らない人に感謝しました。心の中で「師匠」と呼ぶことにしました。師匠の存在によって、修行を重ねればクモ一匹ごときでは動じない人間になれるというロールモデルができました。
冷や汗
午後のグループ瞑想では、始まって5分もしないうちに足が痛くなりました。時間が経つごとに痛みは増していきましたが、昨日ATとみんなの前で「できます」と言った手前、足を組み替えるのは憚られました。コースが終わった今考えると、自分をよく見せたいという渇望があったり、そもそも誰も目を開いてないので自分が動いても見えないというツッコミはあるのですが、この時は「絶対に動いてはいけない」という強迫観念のようなものがありました。
30分を過ぎたであろう頃から、痛みは耐え難いものになっていました。そういう時は痛いと感じる部分の感覚を平静に観察すよう指示されていましたが、そんなことはできませんでした。それでも足を組み替えずに耐えていると、背中に冷たい汗が流れるのがわかりました。これが「冷や汗」というものだと理解しましたが、それどころではありません。あと何分で終わるのかわからないのも辛さに拍車をかけました。さらに痛みに耐えていると、いわゆる「大」が出そうになっていることに気づきました。さすがに強い決意と引き換えに「大」をもらすわけにはいかなかったので、足を組み替えることにしました。しかし足を組み替えることも痛くてできないことに気づいて焦りました。凄まじい痛みに耐えながらなんとか足を組み替えました。無念でした。足を組み替え終わった5秒後に、ゴエンカ氏の詠唱が流れました(瞑想の終わる5分前にお経のようなものが流れる)。
蓄積されたサンカーラ
講話では、感覚にやみくもに反応するのをやめると、蓄積された古いサンカーラ(反応)が浮かび上がり、それにも反応せずにいることによってサンカーラを滅するという話がありました。蓄積されたサンカーラが浮かびあがるというのは本当かどうかはわからなかったのですが、ヴィパッサナー瞑想に入る前にはなかった痛みが体にあることは確かでした。
「身体に蓄積されたサンカーラ(反応)」という概念は、輪廻転生とともに自分の理解が及ばないものでした。しかし、コース後に色々調べていると、近年トラウマ治療の分野で「身体の感覚を観察する」というアプローチがあることを知りました。これはソマティック・エクスペリエンシング(SE)とか、センサリーモーター・サイコセラピーといって、身体を入り口として心に働きかけるのだそうです。
トラウマ治療の手法として確立されているからには、「身体が過去の反応を記憶している」という点については信憑性があるように思えました。色々理解が追いついていない部分も多いのですが、ヴィパッサナー瞑想やSE療法によって苦しみが軽減したという人が多くいる以上、それを信じて瞑想するしかありません。ゴエンカ氏いわく、「石けんがどのように汚れを落とすかを解明するのは科学者の仕事であり、あなたはただ汚れを落とすだけでいい」とのことです。
記録6へつづく